ハロルド・ミヤモト氏ハロルド・ミヤモトのスノーボードコラム集

秋と言えば読書である。私は電車にのる場合でもとにかく活字がなければ暇がつぶせない人間なので、本はよく読むんだけれども、どうもこう「読書」などと言葉や活字にしてしまうと、なにか高尚なことの様な感じがして気が引けてしまう。

たとえば「趣味は読書です」などと宣言した日には太宰治や小林多喜二、或いは宮本輝や吉行淳之介あたりは何冊かこなして、自分なりの感想や解説の一つも語らなければならない気がしてくる。

それに反して私が好んで読む本の作者といえば姫野カオルコとか、フレデリック・フォーサイス、ナンシー関、ビートたけしに大槻ケンジと解説を語るまでもないし、ジャンルもまるで脈絡が無い。強いて言えば名前にカタカナが入っている事だが、もちろんそういう基準で選んでいるわけでもない。

別に何を読んでも自分の勝手なんだけれども、どうも改まって読書なんていうと、教科書に載っているような有名作家や、ハードカバーでしか出ていないような純文学の作家の作品でなければよしとしない風潮があるように思う。別の言い方をすれば文学を楽しむ事が読書であってただ本を読むのは読書では無いという考えみたいな・・・。この理屈で行くと、たとえば大前研一のビジネス書とか、小泉純一郎の政治関係の本、このトランスワールド誌なんかの雑誌はいくら読んでも「趣味は読書です」とは言えないのだ。

で、コラムの話なんですけど、ときどき酒の席なんかで「おまえの書いているコラムには中身が無い!」などとお叱りを受けることがある。この場合は正直どう返して言いか困ってしまう。そう言われて腹を立てるのとはちょっと違って、そういう風に役にたたないことが第一の目的で書いているのだから、まさに狙いどおりと言う意味で言いようが無いのだ。

作り手側から言えば、難しいライディングテクニックの解説や哲学的なトップライダーたちのコメント、インタビューを読む間のいわば箸休めと考えている。変にためになっては頭を休められないし、頭をリラックスさせるならやはりくだらない方がいいのである。

コラムには中身が無ければいけないと言うのも、さっきの読書の先入観と同じで、書物はすべて何か主張を持っていたり、ためになるもので無くてはならないと思っているからで、行間から作者の意図を汲み取ったり、深い意味を探らなければならないと考えているからだと思う。読書というものの敷居を無理やりあげているような感じと言うか。

そもそも読書にルールなどないはずである。読書の主役は読んでいる人であって決して書いている人ではない。極端に言えば行間から作者の意図すべきものを汲み取る必要もないし、自分がこう思ったとするなら、それが作者の意図からはずれていてもかまわないと思う。

作者の意図を過剰に推理して、渡辺淳一の失楽園を男と女の業や死と言った重苦しいテーマで捉えるのもいいし、ただ単にどっかに行ってうまい物を食っていろいろな格好ではめまくっている不倫カップルと捉えて、オナニーのねたにしてもいいわけである。

ま、私はそんな風に思うので、みんなも人の書いたものを読んだりするのに飽きたら、どんどんコラムを書いてみて欲しいと思う。人に読ませるコラムを書く上で一つだけ気をつける必要があるとすれば、自分の自慢話をしないことぐらいだ。特に一見自分を落としているように見せかけて実は「そんなこと無いよ」と読者に無理に言わせるようなのは一番よくない。

たとえば有名なプロのスノーボーダーが「だって俺スノーボードうまくないし・・・」なんていう風に書くのは、場合によるけれども嫌みにとれてしまう。ナルシスティックな部分が見えてしまう。逆に読者を楽しませる文章はたとえばこんな感じだ。

みんなも知っていると思うが、俺はスノボがうまいよ。この間もパイプでロデオを軽く決めて見ている奴をアッといわせたぐらいだ。どうやればそんなにうまくなるのか聞かれるが、ま、それはがんばって続ける事ぐらいしかないね。才能? うんそれも勿論あると思うよ。

今は、「COOL BOARDER�U」と、「X-GAME」はまず完璧かな。今度は「みんなのスノーボード」が発売されたらマスターするよ。(ってそれゲームじゃないか!)

一見自慢しているようで、実は落としている。これがポイントです。いいのが出来たらパクらせていただきますので、ぜひ編集部まで送ってください。

お茶の間ボーディング(Transworld Snowboarding誌99'12月号)掲載