今年5月27日付の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」を見て驚いた。金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の現地指導が1面、2面にわたり報じられたが、驚いたのは現地指導の対象が、朝鮮人民軍が北朝鮮南東部・江原道の馬息嶺(マシンリョン)に建設している広大なスキー場だったことだ。

馬息嶺は日本海側の主要都市・元山の奥にある山間部だ。ここに数十万平方メートル、総延長110キロメートルに達する、幅40メートルから120メートルのスキー場を建設していることが、この報道で確認された。普通であれば10年掛かる工事を、軍人たちが1年にも達しないうちにやり遂げたという。

労働新聞は「わが人民に文明的で幸福な生活条件を準備されるために心遣いされた敬愛する最高司令官同志におかれては、雪がたくさん降り、スキー場として適した地帯である馬息嶺に、自慢すべきスキー場を建設することを直接提起し、その課題を人民軍に下された」とした。このスキー場建設工事は金正恩第1書記が直接指示したものなのだ。
金正恩第1書記は「勇敢さと敏捷性を育むスキーは、専門選手だけでなく、子どもから大人まで皆が好むスポーツである」とし「馬息嶺スキー場が完成すれば全国にスキーブームが起こるだろう」と語ったとされる。

しかし、食糧さえ満足に供給できない北朝鮮で、この巨大スキー場をいったい誰が利用するのかという疑問は消えない。

■「馬息嶺速度」キャンペーンの危うさ

続いて、金正恩第1書記は6月4日、すべての軍人と人民に対して「『馬息嶺速度』を創造して社会主義建設の各部門で新たな全盛期を開いていこう」というアピールを発表した。労働新聞が翌5日に1面トップで報じたのをはじめ、北朝鮮メディアはこのアピールを大々的に報じた。北朝鮮で最高指導者が直接アピールを発表して人民に訴えるというやり方は、これまであまりなかった。

金正恩氏は「馬息嶺スキー場の建設は金日成(キム・イルソン)主席と金正日(キム・ジョンイル)総書記の人民愛の崇高な念願を実現して人民により立派な文化生活条件を与えるために朝鮮労働党が提示した壮大な愛国事業である」と述べた。

このアピール以降、北朝鮮では「馬息嶺速度」というスローガンが全国を席巻することになる。10年掛かる工事を1年足らずで終えた軍人たちを見習い、経済建設に大革新、大躍進を起こそうというキャンペーンだ。馬息嶺スキー場も年内に完成することを訴えた。

北朝鮮の序列ナンバー2である金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長も6月7日に馬息嶺スキー場を視察した。

金正恩氏のアピールにいち早く応えたのが馬息嶺のすぐ近くの江原道・洗浦台地の開発に従事している労働者たちだった。

「洗浦台地」は江原道の洗浦郡・平康郡・伊川郡の3郡にまたがる広大な台地で、ここでは昨年11月から畜産業の大拠点をつくる工事が始まっている。この台地に牧草地、畑、畜舎、畜産物加工拠点、住宅、防風林などを造成する工事が続いている。6月13日にここで軍民大会が開かれ、「馬息嶺速度」に負けない「洗浦台地速度」で造成を進めるとの決意が表明された。

翌6月14日には平壌で約10万人の市民や学生たちが参加して大会が開かれ、金正恩氏のアピールに応え、「馬息嶺速度」で社会主義建設において大飛躍、大革新を起こすことが訴えられた。6月16日には北朝鮮北東部の清津でも「馬息嶺速度」で大躍進を起こそうという市民大会が開催された。大会は平安北道、慈江道、黄海北道など全国で開催され、馬息嶺速度キャンペーンが展開されている。

「労働新聞」は6月17日「偉大な先軍霊将(金正恩元帥)の攻撃精神で大高揚進軍速度を最大に高めよう」と題した社説で「銃弾、砲弾を作って前線に送る心情で、鋼材やセメントなどの資材生産を進め、馬息嶺地区に優先的に送るべきだ」と訴えた。金正恩氏は馬息嶺スキー場に関連し建設資材と食料品、生活用品を贈り、現地では7月1日にこれを伝達する式典が行なわれた。

北朝鮮では過去にも「千里馬速度」「熙川速度」といったキャンペーンが行なわれた。今回の「馬息嶺速度」は「10年もかかる工事を1年でやった」ということだが、「熙川速度」も約10年かかるとされた熙川発電所を約3年で完成させたことを模範とする経済建設の速度アップ運動だった。熙川発電所が完成すれば平壌の電力不足は解消するといわれたが、平壌の電力不足は相変わらずだ。無理な突貫工事で工事が手抜きになり、ダムのあちこちで漏水が起きているという情報がある。北朝鮮の建設事業では「速度戦」という言葉がよく使われるが、工事の繰り上げ達成が要求される結果、手抜き工事が後で問題になるケースが多い。

金正恩時代のスローガンに「ハンスメ」というのがある。「一気に」という意味だ。ビールは一気に飲めても、ダム建設やスキー場建設がそう簡単に「一気に」成し遂げられるものなのかどうか。

■「ゆかりの地」元山の観光開発か

金正恩氏は3月31日の党中央委員会2013年3月総会での報告で「元山地区(江原道)や七宝山地区(咸鏡北道)をはじめとする国の各所に観光地区をしっかりと整えて観光を活発に行ない、各道に自らの実情にあう経済開発区を設置し、特色を持たせて発展させるべきである」と語り、従来の羅先などの「経済特区」とは別に、各道に「経済開発区」を設置する構想を明らかにした。

最高人民会議常任委員会は5月29日付政令で「経済開発区法」(全7章、62条、付則2条)を制定した。同法では経済開発区には「工業開発区」「農業開発区」「観光開発区」「輸出加工区」「先端技術開発区」などがあると規定している。

馬息嶺スキー場の構想は、この「観光開発区」構想の代表的なものではないかとみられる。

北朝鮮で自動車の組み立てをしている韓国・平和自動車の朴相権(パク・サングォン)社長は今年1月22日に「昨年12月に平壌を訪問した際に、元東淵(ウォン・ドンヨン)統一戦線部副部長から馬息嶺にスキー場を建設する計画を聞いた。スキー専門家の金正恩元帥がスキー場開発を直接提起し、場所を馬息嶺に決めたのも金正恩元帥」と語った。北朝鮮は昨年末に元山を観光特区として開発し、元山にある軍用飛行場を国際飛行場にする計画を立てて、既に工事が始まっているとした。

韓国の中央日報は6月26日、同紙が北朝鮮の「元山地区総計画図」(元山地区総合開発計画)を入手したと報じ、北朝鮮は元山を▽金融貿易地区▽公園・スポーツ・娯楽施設地区▽観光宿泊施設・スポーツ村地区などに分けて開発する計画だとした。

元山には松涛園海水浴場や明沙十里、葛麻半島など風光明媚な観光資源がある。

金正日総書記は元山に「招待所」(別荘)をつくり、毎年、元山を訪れ、その自然を楽しんだ。

また、金正恩氏の母・高英姫(コ・ヨンヒ)さんは在日朝鮮人出身の帰国同胞である。元山はその帰国同胞たちを乗せた船が最初に到着した港でもある。さらに、金正恩氏が生まれたのも元山で、金正恩氏の元山への愛着は格別だという情報もある。

韓国が最近公開した2007年の金正日総書記と韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の首脳会談の会談記録でも、金正日総書記は元山について「元山は休養地で湾だが汚物がたびたび湾内に入ってくる。別の所で処理すべきだが、馬息嶺が屏風のようにあるからまったく精製、浄化できず、間違えばすべて海に押し出されるため汚染されてだめだ。そこで元山市内にある鉄道工場と造船所もみな撤廃する計画だ」と話している。

こうしてみると、元山開発は既に金正日時代から決まっていたようで、ある意味では「金正日総書記の遺訓」ともいえる。金正恩氏も自分の出生地とされる元山に愛着を抱き、今回の馬息嶺スキー場の建設を叱咤激励しているようだ。

■問われるリーダーシップ

しかし、どうしても理解できないのは人民の食生活も解決されない状況で、ほとんど不必要と思われるスキー場建設をなぜ、今やるのかということである。北朝鮮人民がスキーを楽しむ時代がそう早く来るとは思えない。幹部が細々と楽しむか、軍人の訓練、一部のスキー選手育成程度しか考えられず、これほど大規模なスキー場が必要とは思えない。

一部では韓国で2018年に江原道・平昌で開催される平昌オリンピックの南北共催を狙った開発ではないかという見方もあるが、5年後とはいえ、平昌と馬息嶺はかなり離れており、現在の南北関係では現実性は低い。

人民にスキー場という「文明的で幸福な生活条件」を与える前に、北朝鮮の指導者がやらなければいけないことは山ほどあるはずだ。

金正恩氏はスイスに留学したとされる。スイス留学時代にスキーを楽しんだのだろうか。しかし、この開発はあまりに北朝鮮の現状を無視した思い付き的な発想というしかない。

金正恩時代になって1年半以上が経過した。当初、実績も経験もない金正恩氏の政治手腕には疑問がつきまとい、政権の実権は側近勢力が握るのではないかとみられた。

金正恩政権において叔母の金慶喜(キム・ギョンヒ)党政治局員や崔龍海(チェ・リョンヘ)軍総政治局長、張成沢(チャン・ソンテク)国防委副委員長という側近勢力の影響力が強いと思われるが、金正恩第1書記自身の権限が次第に強まっているとみられる。特に昨年7月に李英鎬(リ・ヨンホ)総参謀長を解任してから、軍部ではめまぐるしい人事異動が続いた。軍部では、父・金正日総書記の側近を形成していた軍人たちを引退させ、影響力を削いで行きながら、自身の側近勢力を育てている傾向が顕著になりつつある。

先の馬息嶺スキー場の現地指導に同行したのは孫哲柱(ソン・チョルジュ)軍総政治局副局長、全昌復(チョン・チャンボク)人民武力部第1副部長、朴正川(パク・ジョンチョン)砲兵司令官(上将)、徐洪燦(ソ・ホンチャン)中将というメンバーだ。4人とも金正日時代には金正日総書記の軍部隊視察や現地指導に同行したことはほとんどないとみられる。新しく登場しつつある金正恩側近勢力の一部だ。

馬息嶺スキー場現地指導の報道では「敬愛する最高司令官同志の命令指示であれば、細かい理由や口実を問わず、無条件で徹底的に貫徹することが体質化している軍人建設者たちは、着工の最初の一掘りを掘った時からわずか1年もしない間に膨大な岩盤と土壌処理をきれいに終え、スキー滑走路を完成させたのをはじめ全般的な工事過程を計画通り進捗させた」と報じた。

この金正恩第1書記の命令を「無条件で徹底的に貫徹することが体質化している」ことこそが問題だろう。北朝鮮が今、優先的になすべき課題が何であるかという問題が論議されることなく、金正恩第1書記の思いつきで、政策が実施されていることが問題なのだ。これは最高指導者の地位に昇った金正恩氏の権限拡大を意味すると同時に、北朝鮮でまともな政策論議プロセスが踏まれていないことを意味する。

■いつまで続く娯楽施設優先路線

朝鮮中央通信は6月19日、金正恩第1書記が平安南道安州の協同農場の野菜温室を視察したと報じた。北朝鮮メディアが金正恩第1書記の協同農場視察を報じたのはこれが初めてである。金正恩氏は野菜栽培用のビニールハウスを視察し「現在、全国的に野菜温室の建設ブームが起きているが、それが現実に成果が出ているか確認するために来た」と語った。そして続いて訪問した南興青年化学連合企業所を現地指導し、野菜温室を建設するためにも同企業所でビニールを大量生産することを求めた。

しかし、北朝鮮の人民生活にとって最も重要な課題が「食べる問題」であるにもかかわらず、協同農場への視察が権力を掌握して1年半以上経ってというのはあまりにひどい話だ。農業部門の指導をこれまで崔永林(チェ・ヨンリム)前首相や朴奉珠(パク・ボンジュ)首相に丸投げしてきた結果だ。

金正恩氏自身はスキー場建設だけでなく、綾羅人民遊園地視察(昨年4月、5月)、凱旋青年公園遊技場視察(同5月)、柳京院や人民野外スケート場視察(同5月)、中央動物園施設(同)、牡丹峰楽団の創設(昨年7月)、ヘマジ食堂視察(同9月)、万景台遊技場と大城山遊技場視察(同10月)、人民野外アイススケート場やローラースケート場視察(同11月)、レストラン船「大同江」視察(今年3月)、鉄板焼きなどを含む「ヘダンファ館」視察(同4月)、元山の松涛園青年野外劇場視察(同5月)と娯楽部門への視察や現地指導の多さが突出している。

これらは「人民の生活向上」というよりは富裕層、幹部たちのためのレジャー施設整備にすぎない。一般住民の生活の実情を無視し、既得権階層の「文明的で幸福な文化生活」のための環境整備だ。

元山を大観光レジャー区域にして外貨を獲得するというなら、海外の観光客が安心して訪問できる環境をつくることが先決課題だ。金剛山観光は2008年7月に韓国人女性観光客が立ち入り禁止区域に入り北朝鮮兵によって射殺された事件で観光が中止されたままだ。金剛山観光も再開されないのに元山観光を楽しむ観光客は限られたものになるだろう。

北朝鮮各道に「経済開発区」をつくるという構想も良いが、ある日、突然、政治的な理由で北朝鮮労働者全員を撤収した開城工業団地の状況を見て、安心して北朝鮮の経済開発区に進出する海外企業があるだろうか。

北朝鮮の経済再建や経済改革は、単なる経済環境だけでなく、外交安保的な孤立を打破しない限り困難である。海外からの進出企業はコンピューターの持ち込みも難しく、自分の携帯電話も使えないような国にどうして企業が進出するだろうか。

金正恩第1書記が今やらなくてはならないのは、核・ミサイルの開発を放棄して国際社会との関係を改善し、人民生活向上の政策に取り組むことだ。大規模なスキー場をつくるのは「今ではないでしょう」。
(フォーサイト)