新潟県湯沢町の苗場スキー場で昨年開催されたイベント「スキーの新潟オープニングin苗場2010」。スキー発祥100周年キャラクターの「レルヒさん」を先頭にした1本杖スキーが披露された(新潟県提供)■最新技術紹介 ミズノ、普及に貢献

1930年、日本のスキー界にとって重要な出来事があった。オーストリアの超一流スキーヤー、ハンネス・シュナイダーが来日したのだ。シュナイダーは日本に滞在した約1カ月の間、精力的に講演や実技指導を行った。

「リリエンフェルトスキー術」と呼ぶレルヒ少佐のスキー術は、長いさおでバランスを取る「1本杖」の滑りだった。これに対し、シュナイダーがもたらしたのは2本のストックを使い、急峻も巧みに滑り降りることが可能なはるかに高度な技術だった。シュナイダーの指導はスキーヤーの技術向上熱を大いに刺激した。それはやがて、1956年に行われたイタリア・コルティナダンペッツォ五輪における猪谷千春選手の銀メダル獲得という、日本人初の快挙として花開くこととなる。

シュナイダーの来日より8年前の1922年、大阪中央公会堂で日本初のスキー映画の上映会が行われた。上映された映画は「スキーの驚異」。主演したのはシュナイダーだった。数々の最新テクニックが紹介され、シュナイダーの名声を確固たるものにしたこの映画は、世界的なスキーブームをもたらし、日本でもスキーへの関心を深めるのに貢献した。

この上映会を開催したのは、スポーツ用品メーカーの美津濃(ミズノ)だった。日本を代表する総合スポーツ用品メーカーの同社は、スキーにも深いかかわりを持ち、その普及に大きく貢献してきた。
ミズノが販売した1962年型のスキー板の広告。大卒の初任給が1万7000円程度だった時代に、値段は5900〜1万1000円と高価だった(同社提供)創業は1906年。当初は野球用品の製造販売からスタートした。スキーとの関係はその14年後、スウェーデンのサンドストラム社と総代理店契約を結んだことに始まる。

上映会開催の背景には、スキーの底辺拡大が用具販売の拡大につながるとの考えがあったとみられる。

上映会の1年後、創業者の水野利八はスポーツ好きで知られた秩父宮さまにヒッコリースキーを献上した。その際に秩父宮さまから「日本でこういうスキーはできないのか」と問われた水野は恐縮し、自らスキー板を製造することを決意する。その決意は固く、数々の苦労を重ねながらも4年後の1927年に独自開発のヒッコリースキーを完成させた。

ミズノが販売していた1958年型スキー板(同社提供)その年、ミズノは上映会と並ぶもう一つのスキー普及策に乗り出した。東京、大阪、京都、神戸の4カ所でアマチュアスキークラブを発足させたのだ。このうち大阪のクラブは今も全日本スキー連盟に登録して活動を続けている。

スキー文化の底辺拡大には、こうしたメーカーや関係者の尽力があったことを忘れてはいけないだろう。
(MSN産経ニュース)



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